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第8話 まだ契約前です

Author: 八月 猫
last update publish date: 2026-07-03 09:01:01

三十分は短い。

けれど人生を変な方向へ曲げるには、十分すぎる時間らしい。

ラウンジを出る頃には、私はさっきより少しだけ冷静になっていた。冷静になった結果、状況の異常さもはっきりした。

婚約者に捨てられた夜。

鷹宮家の御曹司から、婚約破棄を前提にした婚約を提案される。

冷静になるほど意味がわからない。

「大丈夫ですか」

隣を歩く玲央さんが、静かな声で尋ねてきた。

大丈夫。

その言葉ほど返事に困るものはない。

「大丈夫ではないです。でも歩けます」

「それは、大丈夫の範囲に入りますか」

「今夜の基準では入ります」

「基準がかなり下がっていますね」

「原因の一部は玲央さんです」

「否定できません」

素直に認められると怒りにくい。

困る。

廊下の絨毯は相変わらず足音を吸っていた。さっきまでの私は、この静けさに救われた気がしていた。でも今は静かすぎて自分の心臓の音まで聞こえそうだった。

左手の指輪が重い。

外せばいい。

そう思うのに、まだ外せない。

陽斗が好きだった時間を捨てるみたいで指先が動かなかった。

白藤さんという縁談相手が待つ部屋の近くまで戻ると、鷹宮静華さんは廊下の窓辺に立っていた。付き添いの人たちは少し離れた場所にいる。

静華さんは夜景を見ていたはずなのに、私たちが近づいた瞬間にゆっくり振り返った。

待っていた。

そんな言葉は一つもないのに、そうわかる。

「三十分ぴったりね」

「お待たせしました」

玲央さんが頭を下げる。

私はその横で背筋を伸ばした。伸ばしたところで、今日の私の中身はだいぶぐちゃぐちゃだ。でも背中くらいはまっすぐにできる。

静華さんの視線が私に移った。

「朝比奈さん。玲央とのお話は済んだのかしら」

「はい。条件は伺いました」

「条件」

静華さんが楽しそうに繰り返す。

やめてほしい。

その二文字だけで、この人はだいたい察していそうだ。

「では、あなたは玲央の申し出を受けるの?」

「まだです」

即答だった。

玲央さんが少しだけこちらを見た気配がした。

静華さんは目を細める。

「まだ?」

「書面を拝見してから判断します。口約束で人生を動かすには、今日の私は少し疲れていますので」

言ってから、強すぎたかもしれないと思った。

でも取り消す気にはなれなかった。

私は今日、笑顔で婚約を壊された。優しい言葉で過去にされた。だからもう、柔らかい言葉だけを信じるほど元気ではない。

静華さんはしばらく私を見つめていた。

綺麗な目だった。

静かな湖みたいなのに、底が見えない。

「賢明ね」

やがて、静華さんはそう言った。

「玲央。聞いたでしょう。こういう方に、曖昧な言葉だけで何かを求めてはいけません」

「はい」

「あなたは急ぐと、手順を少し飛ばすところがあるわ」

玲央さんが黙った。

また負けた。

でも今度は少しだけ面白い。

静華さんは私を見る。

「朝比奈さん。玲央が何を提案したかは、今は聞かないでおきます。けれど、あなたが引き受けるにしても断るにしても、自分に不利な条件で頷いてはいけません」

意外だった。

もっと探られると思った。もっと試されると思った。

でも静華さんの声は、どこか優しかった。

「ありがとうございます」

「お礼を言うのはまだ早いわ。私は玲央の母ですもの。あなたの味方とは限らない」

「それを先に言ってくださる方の方が、信用できます」

静華さんが瞬きをした。

玲央さんもこちらを見た。

あ。

また口が勝手に。

けれど静華さんは、今度も怒らなかった。

ふっと笑う。

「面白い方ね」

「よく言われません」

「でしょうね。周りの方が気づいていないだけかもしれないわ」

その言葉が、思ったより胸に残った。

気づいていない。

誰が。何に。

考えかけて、やめた。

今夜これ以上考えると、頭の容量が本当に足りない。

玲央さんが静かに口を開いた。

「母さん。白藤さんには、俺から改めてお詫びします」

「ええ。それは当然ね」

「今日はこれで失礼しても構いませんか。朝比奈さんを送ります」

「玲央さん」

私は思わず名前を呼んだ。

「送る話はまだしていません」

「夜も遅いので」

「それはそうですが、私にも帰り方くらいあります」

静華さんが口元を押さえた。

笑った。

完全に笑った。

玲央さんは少し困った顔をしている。

その顔を見たら、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

鷹宮家の御曹司。

巨大グループの一族。

得体の知れない婚約契約を持ちかけてきた人。

でも、母親に叱られるし、送る前に確認を忘れる。

完璧ではないらしい。

それが、少しだけ救いだった。

「送っていただくかどうかは、ホテルの出口で決めます」

「わかりました」

玲央さんは素直に頷いた。

静華さんは満足そうに私たちを見ている。

その視線から逃げるように、私は軽く頭を下げた。

「本日は、お騒がせしました」

「いいえ。退屈しなかったわ」

それは褒め言葉なのだろうか。

たぶん違う。

私は曖昧に笑って、玲央さんと並んで歩き出した。

背後に残る静華さんの気配は、しばらく消えなかった。

今夜の私は、婚約者を失った。

そして代わりに、まだ契約前の婚約話と、妙に強い女性の興味を背負ってしまった。

荷物が重い。

指輪より、ずっと。

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